「考える体力」はどうつくのか?

あるいは、暗記したものと「考える」ことについて。

教える職業についていると、この問いに行き当たることはよくあると思います。
goさんの考えと、Hibikiさんの考えを読み、またこの問いについて考えてみたくなりました。
goさんの

「暗記する」作業が「自分で考える」作業のじゃまをしていることがあるのでは

という意見、なるほどなぁと思いました。
「暗記しよう」という姿勢は、確かに考える体力の妨げになるような気がします。
対して、Hibikiさんの

末端にある、考えるための要素をたくさん記憶していることには、要素どうしの関連や、高い階層が、自然に見出されてくる、といった効果があると思います。

も、「うんうんうん」となります。
「暗記しよう」という姿勢でいては、自分で考えるってことから離れてしまう。から、暗記しようとすることを減らせば、考える作業に集中できる。
対して、「暗記したもの」は、その後の考える作業にプラスの結果をもたらす。
ただし、Hibikiさんのおっしゃる「考えるための要素」となってくれるものには、条件があるとも思います。
暗記していることのなんでもかんでもが、考えるための要素になってくれるわけではない、と。
ただただ暗記していることどうしの関連は、なかなかに見えてこないように思います。
考えるための要素は、おそらくただただ暗記したものではない。
暗記に至るまでのプロセスも大事なのかな、と。
考えることを繰り返すと、覚えていきます。記憶していきます。
考えるを経て、記憶したものが、「考えるための要素」になってくれる。
自分の経験からすると、「要素どうしの関連や、高い階層が、自然に見出されてくる」材料となるのは、考えに考え、深く理解し、頭に残っている、そらで再現できるような「暗記しているもの」です。
考えた結果、頭に深くやきついたものたちのような気がします。