体験的な授業とはどういったものか?

『人を賢くする道具』(D・A・ノーマン)にて、体験的と内省的が対比されて語られている。
体験的と内省的についての解像度を上げたいと思って、では授業で体験的なものって何かな、と考えてみる。

  • これやろう、あれやろう、やっておしまい、な授業。
  • 話し方などで興味を惹き、楽しませるが、理解には向かっていない授業。
  • 考えることが欠如している授業。
  • 数学においては、その問題を解けるようになればいい、という授業。
  • 解法暗記な学び方。
    暗記でとどまってしまっていれば、それは全て体験的と言えるかもしれない。
    解けたら意欲が高まるかもしれないが、それは体験的な意欲が高まるだけではないか。解きたいという意欲から、どうやったら解けるのか、何に注目すればいいか、とかに目が向くかなぁ。
    解法暗記は完全に体験的といえそう。こうすれば解ける、知らなければ解けないとなると、そこに内省は生まれにくい。というか、解法を知っているか知らないかにしか目が向かないので、そりゃ内省しようと思わないやろう。
    次の解法を知りたい、は体験的なのか?内省的なのか?
    知らんから解けなくてもいい、となると、内省的ではないよなぁ。
    自発的に内省が行われるようになることが、動機づけられている状態と言える?とするならば、数学においては理解を志向するような状態が動機づけられている状態、となりそう。
    とつらつら書いたけど、読み進めるとこの内省的・体験的の理解は「人を賢くする道具」のとはズレてる。もう一度考え直しで。
  • 過度に内省的なもので体験的にできるのであればそっちの方がいい、というニュアンスのもの。
    学びには、内省的なものを体験的な表現に書き換えようと試みることが必要な部分もあると言えそう。